昭和52年01月29日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 神になりて神より上になるとは思うな。神様より上になろうとは思わぬ。只おかげさえ頂ければよいと言う様な生き方もありますね。神様より上になろうとは思わんし、神様より上にはなろうと思わぬ、おかげさえ頂ければ良い。もうそのおかげさえ頂ければ良いというのが神より上になると言う事です。言わば神を使うというだけですから、神を使用人の様に思うとる訳ですね。何処何処に集金に行きますからと言うて、神様を集金にやる様なものです病気でもそうです。まるっきり神様をお医者さんの様に思うとる。
 だからおかげさえ頂けば良いという信心が、言うならば神より上になる事だとまあ言えるのじゃないでしょうかね。だからお道の信心は、どこまでも金光大神が何時までも尽きぬおかげを話にしておくと仰せられる、その尽きぬおかげの頂かれる、その根本の所が分かり頂かせて貰うと言う事なんですね。尽きぬおかげ、祈願詞に『生かされて生きてあり、その理由を知らずして迷い苦しむ人の難儀を助け給わんと生神金光大神様を差し向け給ひし神御心こそ尊けれ』と有ります。
 なら金光様のご信心をさせて頂いとる者が、果して迷い苦しむ人がないか。難儀に悩み苦しんでいる人はないかと言うとなら金光様の御信者の中にも、まあ迷いやら苦しみを一杯持っておる人が有るという事です。生かされて生きてあり、その理由を知らずしてとある、その生かされて生きてあるその道理を分からせて頂いたら、此処では悩みも無ければ苦しみも難儀から開放されると言う事になるのです。
 ここんところを裏返しにしたらそういう事になるでしょうが。世の中の沢山の人が生かされて生きてある、自分が生きて居るごと思うとる、自分で生きとるごと思うとる。そういう間違った考え方が根本的にある限り、人間の悩みやら苦しみは取れないのだ。それこそこの世は苦の世、苦の世界に終わってしまうのだ。そこで金光大神をこの世に差し向け給いしその御心というのは、言うなら生かされて生きておるんだぞと言う事を、根本的に分からせて生かされて生きてあると言う事はね、どう言う事かと言うと。
 もう一切がこの神様のおかげを頂かねば、立ち行かんのだと言う事です。自分で出来る事は何一つとてないぞと。この神様の御支配、此の神様のお働きを受けない限り。私共は実を言うたら此処一寸動けぬ程しの、私達なんだと言う事を分からせて貰う。其処で話を聞けばその事は、成程道理の上では分かるのです。生かされて生きておることも分かるのです。自分で生きとるなら、自分で何時何時迄も生きとれば良かろうけれども、それも出来ない適わんのだ。
 自分で持っておるというけれども、いかにも持っとるかの様に見えとるけれども、一度私共が中風なら中風にならせて頂いたら、その手そのものも足そのものも身体全身がかなわん様になる。自分で生きとると言うなら自分で思うごとしたら良い、自分で持っとると思うなら自分でそれを持ってみるが良い。持っておったかの様に見え、思っておっただけの事。成程此の神様のおかげを頂かねば、この御ひとつが持てんのだと言う事を分る。話を聞くとほんに先生そうですなと言うわけでしょう皆さんでっも。
 だからそうですなと分かっただけではいけん所に私は信心があると思うのです。『いよいよ天地の心を心とする信心、いよいよ天地日月の心になる事肝要だと』昨日竹葉会で大変熱心に、まあこの頃竹葉会もずいぶん向上したもんだなあと私はお話しながら思うたんです。というのは大変難しい問題が出たんです。大変信心が高度にならなければ分からない様な質問やらお話が出たのです。麻生さんの奥様がこの新春パ-テイで頂いた福引が、合楽理念に基づいてという事だった。
 所がその合楽理念という事が分かりません。そう言った様な質問の、言うならば合楽理念の内容についてのまあ勉強の様な事でしたから非常に難しい。それをなら合楽理念を煎じ詰めて言うと結局は、天地日月の心になる事肝要だと。天地日月の心というのは、そのままが天地の親神様だという事、その天地の親神様の心になる事に精進する、親神様と一体になる交流する。一緒になるから神様の本当の事が分かるのです。成程生かされて生きておるんだと、一緒にならなければ分からない。
 理屈の上で分かっても、どんなに生かされて生きておる事が理屈の上で分かってもです、神様と一体にならなければ分からないのです。そこに言うなら合楽理念に基づいた信心修行が本気でなされない限り、なら何時まで経っても難儀から苦しみから悩みからも開放される事は出来ない。これは生かされて生きておる道理が分かったら、迷いも無くなるぞ難儀も無くなるぞと言う事になりましょうが。
 この反対を言うたら、それを知らんから迷いが起るのだ、それを知らんから難儀が有るのだとここに祈願詞は言ってあるのです。だから生かされて生きてあるという事実をです、私共実感的にです交流する。昨日は朝のまだ私が下がらない前に福岡の川上さん所のお父さんの一年の式年祭がございました。本当に神様にお礼をさして貰い御祈念をさして貰いよりましたらね、丁の字を頂くのです。甲乙丙丁の丁の字を頂くのです。どう言う事だろうかと思うたらね、小さい羽釜にご飯が出来る所を頂いた。
 その御飯にですね丁の字形の羽釜取りです、丁の字形ですね羽釜取りをこう入れて降ろすところを頂いた。もう私は本当にビックリしました。私のごたる頭の悪い者でも神様が分かる様に下さるというのは。丁の字というのは一番つまらんと言う事でしょう。けれども屑の子我と言うのでなくて、信心も知らず真の道も分からず、それこそ生かされて生きておる道理も知らずあちらにいったけれども。
 最低の自分であったけれども、子供たちが孫たちが一家を挙げて合楽の信心を頂いて呉れておるおかげで、この丁の字もままになるおかげを頂いておるという御理解でした。私は本当に信心のすばらしさを、神様と私共が交流するだけではなくて、私共が霊様に交流出来ると言う事、もうそれは本当に有り難い事です。昨日四時の御祈念に合わせて、内田さん所の娘が佐賀の方に嫁いでおるのです。ようやく誕生位の子でしたかね、亡くなりましてそれが丁度昨日で一年でした。
 それで佐賀の方からお父さん始め皆見えまして、やはり霊祭を奉仕させて頂きました。昨日は、竹葉会の中で此処二三回来とります久留米の石井誠之助さんの奥さんが、竹葉会に新しく入りました。これも信心も何も無かったのですが小学校の一年生だったでしょうかね、子供が交通事故にあって即死でした。もうそれから石井家がああして改式してございますから、自分の所も神様を綺麗に奉斉して霊舎も新たに奉斉さして貰いました。それからは金光様の御信心に時々は参って来るけれども。
 もう霊様にお参りして来とるという感じです。神様の事は分からんもんですから。そりゃあもう式年祭の時なんか、もうピシッと天津祝詞は覚えとらんばってん、祖先賛辞だけは覚えとる。もう悲しくなると霊様の前に行って、一生懸命祖先賛辞を子供の為に上げる、まあ親心ですね。だが最近は少し信心が分かり出して、竹葉会に加盟さして貰うて出て来る様になりました。
 それでどんな風かね、陽子さん子供の事をとても忘れられはせんだろうがと言うたら、思い出したり悲しうなったりする時は祖先賛辞を上げますとこう言う。だからそれではね、信心させて頂いとる値打ちは無いんだよと。成程あの時は突発的な、事故が起こった時にそれこそ目の前が真暗うなった様な、世界中で一番不幸者は私だろうかと思う様に悲しんだ、嘆きもしたけれども、あれ以来お道の信心を段々ならせて頂いたら、あの事は大変悲しい事だったけれども。
 その悲しい事よりももっと素晴らしい有り難いものが身に付いて来たと言う事になると。あの霊様に子供の霊様にお礼が言えれる様になるじゃないか、お礼が言えれる様になる。悲しいから霊様の前でさめざめと悲しんだらそれじゃ霊様も悲しい。貴方も一生涯忘れられん痛恨事と言う事にになるのだ。けど信心とは不思議なんだ。そういう苦しいからこそ一生懸命神様に向かわせて頂くと、信心が分かる。言うならば段々御神徳を受けておかげを受けられる様になる。
 貴方が交通事故で亡くなった、あれを境に一家中の者の信心が出来て、今日のこのおかげを頂いとるんだと、お礼の申しあげられる様に成らなければいけないんだと言う事であります。だからその内田さん所のその孫の霊祭に、神様にお願いさして頂きよりましたら、あの葉の無い大根を頂いてから、御理解に大根と、大きい根と言う事を頂いた。言うなら大きい心と言う事。そして昨日私は本当に素晴らしい御理解を頂きました。というのはですね、皆さんが昨日御理解頂きますように、芯が無ければ火が灯らん。
 だから小さい芯なら小さい灯であり、大きい芯なら大きい灯である。阿倍野の教会長はその大きな芯に火が灯っとるからああいう大変なごひれいを頂いとるんだ、と言う所の御教えだ。だから芯をいよいよ大きくして行かねばならない、心をいよいよ大きくして行かねばならない。そこで大きくなっておる過程、自分で大きくなっておるなと分るとはどう言う事かと申しますと、どう言う例えば悲しい事であろうが腹の立つ事であろうが、その事にお礼の言えれる様になった時が心が大きうなった時だと頂いたんです。
 これはもう間違いなしにこの行方でいくなら心が大きくなった時です。もう辛抱が出来ん、もう言わにゃでけん、もうとても腹が立ってたまらん、本当にこう言う悲しい事が又有るだろうかと思う事に直面しましても、信心を段々頂いておるとその悲しい事やら腹の立つ事やらにむしろお礼が言えれる様になる。成程心が大きくなった訳である。だから心が大きくなって行く稽古とはそういう事であるね。
 自分で只、昨日の御理解の様に黙って治める、じっと辛抱しておるという様なところからです、その辛抱しておるその事に対してお礼が言えれる。神様がこの様にして大きうなれ大きうなれと言って下さるんだと思うたら、神様の働きに合掌せずにはおられない。其処に心はいやが上にも、大きくなって行く事になります。大根、大きな根です。その例えばそういう頂き方がです、合楽理念をマスタ-しとかんと、それがぴったりと実感として有り難く頂けんです。
 合楽理念を言わばマスタ-さして頂いておくとです、いわゆる天地日月の心になることが肝要だと言われる、そういう信心修行がなされて行く事と相まって、天の心、地の心というのが育っていく。その育っていくことが分かっただけではいかん。それをなら具体的に大きくなる事に精進する事ははがゆい事も腹の立つ様な事も、まあ言うならば今日も何か腹の立つ事が起こりゃよかがと思うくらいの心が生まれてくる。
 それをどっこいと受け止めて、ああ神様はこうして大きうなれと言いござる、といってお礼を言えれる様な稽古ができるんですから。平穏無事ばかり願ったんじゃいかんということです。いよいよやはり大きく成らなければいけません。そういう私は信心を身に付けて行く所から、これは実感として神様の心と一つになれる働きがです、生かされて生きておる事の事実を実感として感ずる事が出来る。神様との交流と言う事は素晴らしい事なんです。もう不思議です。
 神様と交流するとね、とにかく有り難くなるのです。そして次に何かが生まれて来るのです。だから神様と交流するその手立てをね、頂かして貰う様な信心からです、おかげは勿論ですけれども神を使う様な信心から離れて行く事が出来ます。只おかげを願うという事は、そげん神様になろうとは思わん、もうおかげさへ頂きや良か、そういう考え方がもう既に間違っておるんだと言うのです。その考え方は、もう神様よりも上になっておる様なもんです。神様を小僧扱いにする様なもんです。
 神様をお医者さん代わりに使う様なもんです。そこでなら、段々金光大神が尽きぬおかげを話にしておかれるその尽きぬおかげというのは、尽きぬおかげの頂けれる信心、言うならば合楽理念を基にして、例えばそれを具体的に言うならば愈々芯が大きくなって行く豊かになって行く所の稽古、只拝んだからというて豊かに大きくなるもんじゃない。起きてくる問題そのものをです。
 それは信心がない時なら腹が立つ様な事になるかも知れん、損になったと言うてはがゆい思いをする様な事になるかもしれんけれども、その事に対してお礼が言えれる程しのおかげを頂いた時にいわゆる大きくならして貰う言うならば稽古、又大きくなったと言う事が言える、そこに大きな芯が灯る大きな明かりが灯る。私はそういう中からそういうおかげを頂いて、私は丁寧に話をして行くと言う事。
 実意丁寧、愛の心を以て人に伝えて行くのが神へのお礼ぞ、それが又神にもなるのぞという様な素晴らしい働きが、働きを又生んで行く事になるのですね。私共が精進努力して神になるぞというなら、いよいよ神様と一体になれれる手立てを工夫さして貰うて、神様との交流の中から良いものが生まれて来る、おかげを受けてそのおかげを人に伝えて行く。そういう働きが合楽示現活動とここでは呼ばれておるわけです。合楽示現活動の御用に使って頂き、それが真の道を踏んで行くものであり。
 それが神になるのぞと言う、言うならばそういう働きが又働きを生んで行くと言う事になるのです。だから教祖様の言うならば御教えの総てをここにこう集めるとですね、私共に何を教えられるかと言うと、生かされて生きておるという事実を実感を以て、神様との交流の中から分からせて下さろうとする御教えだと言う事が言えます。生かされて生きてあるという事実をです、理屈の上で分かるのではなくて、神様と一つにならなければ生かされて生きておると言う事の実感が頂けない。
 神様と交流する手立ては、私どもが天地日月の心に本気でなる事に精進する事。天地日月の心と言う事は、どう言う事かと言うと、限りなく美しく限りなく受けて受けて受けぬく心、実意丁寧と言う事は、私共が今まで成そうと思えば子供でも成せる様な事を疎かにして来ておった事を、行の上に表して行く事が日月の心、そういう心に本気で取り組ませて頂く所から、神様と交流する確かに素晴らしい味わいが生まれて来るです。
 これは男と女の交流が大変気持ちの良い事と同じ事です。そしてそっから次に生まれてくるものがあるのと同じことです。神様との交流はどんなに苦しい事があっても、不思議に有り難うして有り難うしてと言う事になって来るから、こんな悲しい事が、どうして喜ばれるかと言う様な事が、おかげで信心が出来ますとお礼が言えれるのですから。交流と言う事はそう言う事なんです。
 だからどうでも、神様が水ならこちらも水にならせて頂く精進をせなければならないと言う事になりますね。神様と一体になって初めて分からせて頂くのが、成程生かされて生きてあるんだなと。なら生かされて生きてあると言う事は、一切がこの神様のおかげを御恩恵を受けずしては、私共は立ち行く事は出来んのだと分かった時に、所謂一切が神愛と分かる事になるのです。
 其処に一切の事にお礼が言えれる事になるのです。そういう生活そういうおかげを、ここでは生かされて生きてあり、その理由を知らずして迷い苦しむ人々の難儀を助けたまわんと、それを助けたまわんとして金光大神をこの世に送って下さったのですから、私共はそういうおかげを頂かなければ、金光大神のご信心を頂いておるという値打ちはない訳。金光大神の信心をしておるけれども、なら果して悩みもないか難儀もないかという結構な中に住んでおる人は実に少ない。
 いかにもこれを読んでおると、金光大神の信心しよりゃ皆悩み難儀がないごたる。それを知らんもんやら信心せん者は悩み苦しんどる様に聞こえますけど、実際は信心を頂いとる者でも、やっぱり今が苦労の真ん中という所を通っておる人が殆どでしょうが、して見ると生かされ生きておるという事実を知っておるだけで、実感的に神様と交流しながら分かっていってないと言う事を、一つ分からなければならんと言う事でございます。
   どうぞ。